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07.28.Saturday 2018

縛りを解く剣

前回の続きの記事です。

Aさんに対する不信感や怒り。
これらの感情が生じたのが、昨年の7月頃だったかな?と記憶しています。

なので、かれこれ一年になりますか。。。長いな(笑)

それでも私、すぐに対処はスタートさせていたのです。自分の怒りのマグマの激しさに驚きつつも、これは何とかせねばな。。。と思っていましたし。
怒りのエネルギーって、ずっと抱えているのしんどいですものね。後生大事に持っているもんじゃないです(笑)

私は特定の宗教は持っていません。
でも、神さまを心に思って生きています。

そうすると、神さまを心に思うとき、自分の醜い感情は、恐ろしいほどくっきりと浮き彫りになってきます。
だって神さまは、相手がどんな人だろうと、愛を注いで下さるでしょう?

それは太陽がどんな場所にも光を届けるのと同じことだと理解しています。
私の中では、神さまの光はお日さまの光と同じで。。。

でも私は、お日さまのようにAさんに光を送れない。
そんな自分の弱さや醜さが、はっきりと見えてしまうのです。

2018.07.28turugi2
その事実を前にすると、「ごめんなさい」という心が生まれて来ます。
神さまの大きな愛に対して、誰に対しても平等な愛に対して「ごめんなさい」です。

それでその「ごめんなさい」という心を神さまに届ける。。。「祈る」ということを、10か月くらい毎日続けていました。
回数にすると、17000~18000回とか??そんな感じです。←回数数えるとか、アホみたいだけど、つい数えたくて(笑)

まぁ、さすがに10000回を過ぎる頃には、マグマのようなドロドロな感情は、おさまりましたね。
時間が解決してくれたという面もあるのかな?

でも、しぶとく融けない塊は、私の心の中に存在し続けて。

人間とは弱いもので・・・って、私が弱いだけなのかもですが(笑)
お祈りを初めて10か月ほど経った頃、「私はこの事を、心から欲してやっているのか?それともルーティーンとしてやっているのか?」という疑問が湧いてきました。

10か月の間、本当に一日も欠かさず続けていて。
いつの頃からかそれは、「心から欲して行いたくて行っていること」から「するべきだからしていること」に変わってしまっていたのです。

そのことに気付いてしまった時、私は一旦、祈るということをやめました。

心が伴わない祈りは、あまり意味がないな、と思ってもいるので。

純粋に「やりたい」ではなく「やらなければ」とか「一度始めたことだから続けなくては」というのは、恐怖心がスタートになっていますよね。

そもそも「ねばならない」ことの全ては、恐怖心が根底にある気がします。

自分の行動を観察してみると、面白いです。

例えば食事。
朝7時だから食べる。昼12時だから食べる。
一日三食食べる。

当たり前のようにやっていることだけれど。
別に食べたくなければ食べなくていい。

○○時だから「食べなきゃ」って、何となく思ったりするけれど。
それだって、「生きていくために、死なないために」という恐怖心が根底にあるように思う。
何故なら「ねばならない」がスタートになっているから。

逆に、とってもお腹が空く日であれば、三食と決めずに食べればいい。
「食べ過ぎちゃいけない」←恐怖
よりも「空腹だから、食べたいから食べる」←自分の望むこと
・・・を、優先すればいい。

こんな風に自分の行動を観察してみると、「ねばならない」という恐怖心から生じているものが、とても多いことに驚きました。

それで私が決めたことの一つ目は、「ねばならない」をやめる!!!ということです。

「ねばならない」は、「頭重心」の思考。
「~したい」は、「肚重心」で感じること。

羽黒山伏の星野先達から伺った話の中で、「考えすぎ(頭重心)はネガティブ。感じること(肚重心)はポジティブ」というのがありました。

確かに。。。「頭重心で計算して」物事をスタートさせても、あまり良い結果にはならないなぁ。と、感じています。

話をAさんとのことに戻します。

例えば、Aさんから『もっともらしい理由で、もっともらしい口調で「会いましょう」』と言われたところで、私がその時「肚」で感じた「何か不自然」とか「嫌だな」という気持ちに素直に従えば良かったのです。

そして「お会いすることもないと思うので、お電話でお話し下さいますか?」と言えば、良かったのです。

単純な話です。

しかし私は、頭で考えてしまった。計算してしまったのです。
「先輩であるAさんの気持ちを害したら、自分の立場が悪くなるかも?」とか。
「先輩であるAさんと親しくしておくことで、自分に何かしらの良いことがあるかも知れない」とか。

頭で計算することって、愚かで汚いものです。

Aさんの心情は、想像することしか出来ませんが、きっとAさんも、肚の底をきちんと観察していれば「大した用でもないのに会いましょうと言うなんて、不自然だよな」と感じることが出来たのではないかな?

肚の声は、真実の声ですから。
それをかき消すのは、エゴです。

「下の立場の女性を、思い通りにコントロールしたい」というエゴでしょうね。

エゴはエゴを吸い寄せます。
恐るべき自然の摂理(笑)

私の「上の立場の人に気に入られておきたい」というエゴと
Aさんの「下の立場の女性を、思い通りに従わせたい」というエゴがピタリと合ってしまったのでしょう。

この写真みたいに、鏡の法則ですね。
2018.07.28turugi1

本来人間には「上も下も無い」のですけれど。
でも、上と下を作ったのは、私でありAさんなのです。

それって国境と同じですね。
地球に線なんか引かれちゃいないのに。
国と国とが勝手に国境を作る。。。っていう構図。

同じですね。
エゴとエゴが作る隔たりですね。悲しいことです。

人と人とを分断する隔たりが、怒り・不信感・恐怖という醜い心の発信元。
その隔たりを作り出す原因は、人間のエゴとエゴが作用しあってのこと。
そのエゴを生んでしまう原因は、頭重心の思考。

こうしてまとめてみると、とてもシンプルなのですよね。
頭で考えなければ、争いも起きないのですから。

ひとがそれぞれ、己の真実の声を聴きさえすればいい。
それが出来ないのは、人間がコントロールされているからでしょうね。

例えば親からの縛りであるとか、教育であるとか。。。エゴを刺激して成長させるような。
もしかすると私たちの想像を超えるような、大きなところからの力も働いているのかもしれないですが。

ただ、縛りのきっかけが親であれ、教育であれ、何であれ。。。やはり自分を縛っているのは「私自身」なのだと思います。

例えば同じようなことを親から言われたとして。。。それを「ねばならない」という「縛り」に変えてしまうのも、「関係ないね」と捉えて「縛られない」という選択をするのも、人それぞれですよね。

なので、縛りを作っているのは最終的に「私自身」なので、その縛りを解くことが出来るのも「私自身」しかいないのですね。

その縛りを斬るための「剣」という勇気を持ちたいなと、心から思うのです。
三種の神器でも、「剣」ってありますものね。その剣は、きっと私の肚の中にあります。

ここまで来ると、「あと一歩なんじゃない?」っていう心の声が聴こえてくるのですが、その一歩がなかなかデカそうなのですよ(笑)

とんでもなく苦い薬を飲むどころの騒ぎじゃない感じのこと。

でも、私はそれを「したい」と肚の底から願っています。
それを、26日の新年に確信しました。
『そのことについて、次に書いていきます。