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08.19.Monday 2019

何故、悟ろうとするのですか?

最近「覚醒したいです」とか「波動上げたいです」とか「悟りたいです」みたいなお話、耳にします。

人間だから、「より良くなりたい」って気持ちはわかる。
でも、聞いていて胸が苦しくなるのは何故なのかな?とも思う。

悟りたいのは何故ですか?
何のために?
自分が楽になりたいから?
自分が助かりたいからですか?

これは、皆さんにも、そして4年ほど前の「私自身」にも投げかけている質問です。

多分ですけれど。
「覚醒したい・悟りたい」っていう気持ち満々の場合。。。

例えばあの沈みゆくタイタニック号に乗っていたとしたら、一目散に救命ボートに乗ってしまいますね。

人間だから、本能としては生きたいっていうのはわかる。

でも、あの究極の状況の中でも、子どもを助けるために海に沈んだ人とか
愛する人の命を優先して海に沈んだ人とか
最後の最後まで乗客に音楽を楽しませるために演奏を止めず、海に沈んだ楽団員たちとか

そういう人たちもいたわけです。
もちろん、彼らだって迷ったりしたと思う。
死の恐怖と利他心との間で、多少の差はあれ、葛藤があったと思う。

それでもその人たちは、目の前にいる人に「生きてください」と言って、自分は海に沈んでゆきました。

で、私が「悟りたい」と言っている人たちに感じるのは、これとは正反対のエネルギーなのだと思う。

私は、人のために死ぬのが美しいのだ、とか、そういう事を言いたいのでななく。。。

ただ、「覚醒したい 悟りたい」と言っている人たちは、きっと「迷わず」救命ボートに乗るのだろうなって思うのです。
多分、葛藤無しに、です。
もしかすると、葛藤するフリくらいはするか??(笑)

日本語って本当に面白いと思う。

悟る さとる 

って

差(を)とる
とか 英語のサトル(subtle)

とも繋がります。

英語のsubtle は、「微細な」という意味があり、エネルギーワークでも微細なエネルギーという意味で「サトルエネルギー」って良く使う言葉です。

差取る にしても サトル にしても、絶妙だなぁと思うのです。

「差取る」って、何と何の差を?
自分と相手との
自分とまわりに起こる現象との
自分と世界との

差を取るのですよね。

まず、「自分」って何?

「自」というのは「宇宙」とか「神さま」とか「大いなるもの」とか
人それぞれ呼び方は違うのでしょうが、ざっくり言うと「全てをつなぐもの」という表現になりますかね?

で、自・分 。。。。「全てを繋ぐ(自)」から「分かれちゃって(分)」ますね。
それが自分自分自分なのですって。

自然(しぜん とか じねん)というのは、「然り(然) その通り」ということなのですから、全てと繋がっている状態(然りの状態)とも理解出来ます。

(差を取るに話を戻すと)なので、「自分が自分が」と思っている間は、自分以外との「差」は取れようがありませんよね。

自我が強いと悟れないと言われる所以です。

次、英語のサトル 微細な。

例えばヒーリングを行う場合。
より「サトル」なエネルギーヒーリングを行うことが、より深い癒しに繋がると、私は考えています。

エネルギーの粗さをザックリと層に表すならば・・・
 
物質 → 感じる → 考える → 集合意識 → イマジネーションの世界 → 神聖な世界

色んな考えかたやご意見はあると思いますが、私は今までお聞きした中で、この分け方がとてもすんなりと受け入れられるものでした。

左側の粗い物質の世界から右側のサトルで神聖な世界まで。。。

セラピストとしては、どこの層まで潜って行けて、仕事が出来ますか?ということになります。

サトルな深さに進めば進むほど、クライアントさんとはエネルギー的につながっている状態。
より自我がなく、自他の区別なく、自と他の差が取られた(差が取られた 差とる サトルな)状態ということです。

二つの例で述べたとおり、「差とる」にしても「サトル」にしても、その状態になるには、「自我」が邪魔をしますね。

で、「自我を捨てるためにどうするか?」ってことで、多くの人が「この人、もしかして悟っているのでは?」という先達とか先生に弟子入りしたり、入門したりするわけです。

しかし。。。先にも述べたとおり「悟りたい」とか「覚醒したい」とかを人生の目標とされている方々。。。

ともすると、一般のそういう事に関心のない方々に比べると。。。「バリバリ我が強い」のではないかしら?
で、そのバリバリ我が強い状態の目や耳を駆使して見つけた先達や先生って、大丈夫なのでしょうか?

大丈夫なら良いのです。
でも、すこし立ち止まって考えてみても良いと思います。

その目や耳には、並々ならぬ曇りガラスというフィルターがかかっている可能性はないですか?
悟りたい覚醒したい助かりたいっていう、強い強い自我で曇った目や耳という可能性は?

私がそうだったから、皆さんにもお聞きしてみたいなと思ったのです。

「悟る」ってことを、とても難しくしてしまっていて。。。
ともすれば、こねくり回してしまっているようにも思えたり。。。

そういう先生方、おられます。

実はシンプルなことも、難しくしてしまうって、良いことだとは思えないのです。
もちろん、伝えておられることが真実、ということ前提ですが。

難しく、難解にしてしまったり、難解な言葉を使ったりして、本質が見えにくくなる場合もある。
人間って、解らないことがあると、「解るようになるまで、この方法を突き詰めなければ」とか「こんな大切なことが解らない自分が情けない」とか。。。

思ってしまいませんか?
その方法で解らなければ、違うアプローチもあるというのに。

私は決して、先生方を責めているわけではないのです。
むしろ、盲目的に付いていってしまう人たちに、大丈夫ですか?とお聞きしたいのです。

私も、4年間ほど、ある先生に師事していたことがあります。
師事させていただいたことに後悔はなく。
そこで教えていただいたこと抜きにして、今の私はありません。

ただ、そこに居続けなくて良かったなとは思っているのです。

居たことに後悔はなく、離れたことに後悔がないのなら、どうして何かを書きたいのか?

それは、そこに居続けることによって、救われず、苦しんでいる大切な友人の姿を見てしまったからです。

長くなるので、一度切りますね。
弱かった私自身のことも、書いていこうと思います。

2019.08.19satoru2