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10.13.Sunday 2019

何故、悟ろうとするのですか? ③

久しぶりの投稿です。

前回の投稿をした直後、PCが故障しました(-.-)
何かストップの力が及んだのか?? 判りませんが。

実際、この投稿をするまでの間、楽しく過ごしていて、書く時間を捻出するのも大変だし。。。正直もう「書かなくてもいいのかな?」とも思ったのです。
私にとっては、こうして「言葉を紡ぐ」という行為より、毎瞬毎瞬を輝かせながら生きるのに精一杯だし、その方が好きなのです。

でも、このシリーズは、やはり書いておくべきなのだ。という意志を持って、書き進めますね。

前回からの続き。

所属していた指圧を学ぶ団体で、先輩からの無責任な態度に怒りを覚えた。

しかしそれは、私の無責任さが原因だった・・・というところまででした。

さて、私は何故無責任だったのか?

先生の本を何冊も読み、この先生に師事してこの指圧が出来るようになりたい。その為に、全力で学ぶ。

そうですね・・・私、やっている「つもり」でした。

だって、心が深まれば深まるほど、深いところの施術が出来るってこと、解っていましたから。

先生の本では、「心を深めてゆくことの大切さ」を説いておられました。
本を読んだ上で、「指圧の」ワークショップに出て、入門を決めました。

私の動機は、「心を深め、深いところの指圧が出来るようになりたい」
ここを覚えておいてください。「指圧」が入門の動機です。

もちろん、もっと深いところでは、自分が幸福になることで、世界がより幸福で平和になりますように・・・という願いがありましたが。

ひとりの人間が幸福になることが、連鎖して連鎖して世界の、地球の幸福や平和になるってことも、解りますものね。

少し長くなりますが、私が辿った経緯を書いていきます。

私が入門してすぐ、いや、入門と同時にだったかな?
先生はパレスチナ支援など(他にもいろいろ。ここでは簡単に表現させていただきます)を目的としたプロジェクトを始められました。

そのお志は高く、本当に尊いものだと思っています。

でも私には、どうしても「パレスチナと言われてもピンと来ない」のでした。
「それはあなたに世界を思いやる心の深さがないからです」と言われれば、そうなのかも知れませんが。

例えばですが。。。私は今、シンギングボウルを学んでいます。
ボウルの師匠はネパール支援に尽力しておられますが、この場合、私は抵抗なく支援活動に参加出来るのです。

それはきっと、ネパールの方々が心をこめて作ったシンギングボウルを、私自身が使わせていただいているからです。ちゃんと相手の存在を心で感じられるからです。

「では、あなただってパレスチナに行って、現地の人と触れ合えばいいじゃないか」「行動も起こさずにピンと来ないと言うなんて」という声が聴こえたりしましたが(実際、そのようにある方々に言われましたが)、自分の中の大切な部分が、その声を拒否していたように思います。

上記のように言う先輩方(ほとんどベテラン級の古株の皆さん)に、「何故パレスチナに行かないのか?」「行けない心のブロックは?」みたいな事を言われましたが、そんな言葉を聞くとますます嫌になりましたね。

その方たち。行きたいのなら行けば良いのです。他の人が行くとか行かないとか関係なく、行きたければ行けば良いのです。

でも、行かない人たちに「何故行かない?」と言ってくる。何なら、そう言ってくる人たちの発言には、軽い怒りのエネルギーも乗っていました。

私はこう思います。

そんな風に聞いて来る人たち。
本当は、心の奥底では、行くことに納得していないのでは?

「いいえ、心から望んで行ってます」と言うかもしれませんが、それは「先生がそこに行くから、行動を共にしたいだけでしょう?」と思いますね。
エネルギーの高い方の志の高い行いに従う事によって、自らも尊い人間になれるという「幻」を追っているだけです。

きっと生き生きと同行して活動しているように見える人の大部分は、先生が「来年から行くのやめた」と言ったら、行かないのだろうなと思います。
先生が「来年はアフリカ支援」と言えば、自分らも「そうだそうだ」と、アフリカに行くのでしょう。自分で決めていないのですから。

他の誰も行かなくても、自分は活動を続けます。という方は、本物だと思いますが。
まぁ、そういう方は、本当に一部の方だろうと感じました。

そのある種の「心地わるさや矛盾」のようなものを、私は感じてしまっていたのだと思います。

だって、師匠が「白を黒と言えば黒」を受け入れるっているのは、「全ての場合において」受け入れる必要はないと思うのです。
「白を黒と言えば黒」を受け入れるのは、自分が何においてその人を師匠と呼んでいるか?によります。
仮に、「生き方」を師事しています。という場合でも、そこには必ず、弟子なりの自分軸がありますよ。全てが一致するというのは、疑問に思った方がいい。

私は、その時は師匠に「指圧の弟子」として入門しました。
なので、指圧のことで「白を黒だ」と言われれば、それを受け入れていました。

しかし、それ以外のことで「白いものを黒にする」のは、自分が無いも同然でしょう?
自分を無くすのが無我でしょう?という意見があったとしたら、私はそうは思いません。

無我になるというのは、まず「意志」があった上で出来ることです。

上記の方々の場合、自分の意志で生きておられないように見えました。

意志がない人生。千と千尋の神隠しの「カオナシ」と同じです。
カオナシは、ひとからエネルギーを吸って生きます。なので意志のない弟子は、師匠のエネルギーを吸って生きることになります。

私はそれは、本当の関係性ではないと思います。

私も偉そうなこと言っていますが、自分の入門の動機が「カオナシ状態」だったから判るのです。
第一話で書いたとうり「カリスマっぽい先生について行けば、何とかなるでしょー」というアホな動機で入門した私だからです。

さて、この回の目的。
「私はどうして無責任だったのか」に戻りますね。

「私は最後の最後で、カオナシである人生に抵抗」しました。

入門の目的以外のことで、「白を黒」と言いたくない気持ちが勝りました。

それなら直ぐに、先生の元を去れば良かったのですが。。。

でも、指圧を諦められなかった。
この矛盾が、私を無責任にしていたのです。

誤解無きように書きますが、先生は決して、何においても「~しなければいけない」と強要をされることはありませんでした。

それは先生が強い意志をもって、ご自分の活動をされていたからです。
意志のある方は、ひとに強要などなさらないものです。

私が抵抗感を感じたのは、言葉にすると「同調圧力」みたいなものかと思います。
「カオナシ」である弟子たちからの、言葉による、又は言葉にならないものによる同調圧力。

先生はそれを良しとしておられませんでしたが、団体に充満してしまう「同調圧力」は存在していました。

圧力は何処にでもあるものです。それは仕方がないこと。
大切なのは、その圧力に自分がどう対処していくか?ということだけです。

でも、その圧力に負けたのも私なのですよ。

「指圧が諦めきれないから、気乗りのしない支援活動だけど、適当に関わっておこう」っていう、何とも宙ぶらりんな状態を自分で作ったからです。書いてて吐き気がするほどの無責任ぶりですよね(笑)

支援活動。
やりたくなければ、一切関わらなければ良かったのです。

何なら、「私、指圧で入門したのに、どうしてこの活動に関わる必要があるのですか?」って言っても良かったのです。
でも私の弱さや、ひとに悪く思われたくないという気持ちが、私を「良い人を装う無責任な人間」にしていたのです。

そしてこの自分の「無責任さ」というモンスターを先輩たちが「鏡となって演じてくれた」わけです。

全ての雑事、責任を私に負わせ、何とも思わないモンスターね(笑)

そのモンスターに嫌気がさしたことがひとつの原因で(他にも大きなきっかけはありました)、私は師匠の元を去りました。

モンスターに怒りながら(笑)

前回に書いた文章の中で、「先生の元を去ってから暫くして、自分の内面と外界が一致することが腑に落ちた」と書きました。
なので、今は、モンスターに怒りは一切感じません。モンスターは私自身だったのだから。

その方たちには、「気付きを与えて下さって、ありがとうございます」という気持ちのみです。

それを腑に落とすまでは、ムシャクシャしてましたよ(笑)
「私の4年間は、何だったのか?」なんて思ったりして。

今は、そうは思いません。
あの時間と経験が無ければ、今の自分は無いと心から思っていますので。

そう思える今でも、これは言っておきたいことを書いてみます。

ここでは、包み隠さず!(^^)! 大放出してみよう。

・師匠へ。←読んでないと思うけど(笑) 弟子を募集するなら「指圧でしないで」いただきたかった。少なくとも私が弟子になった時代には、「指圧」で募集していましたから。そこは疑問を感じますね。「支援活動をする集まりです。その結果として、深い指圧が出来るようになりますよ」という表現であれば、誰も苦しまなかったと思います。

でも、師匠も人間ですからね。それはそれでいいのかな?とも思いますが(*^^)v そんな矛盾も人間っぽさかもですね。

・カオナシを続けている弟子たちへ。「あなた以外の誰かが描いた自由に縛られ、あなた自身が不自由になることは無いですよ」と言いたい。
カオナシたちは、自分が不自由であることに気付いていないから。

誰かが描いた自由と、自分が描いた自由が重なりあるところがあれば、その時は「チームを組めばいい」のです。良いチームを組むには、自分がどういう自由を描いているのかが観えていないと無理です。そうでなければ、エネルギーの高い人からエネルギーを吸って安心するだけの、奴隷のような生き方になります。私はある方から「師は依存の始まり」という言葉をいただきました。依存しているようでは、カオナシの弟子のままです。

誰かが描いた自由は、その誰かにとっては、掛け替えのない、尊いものです。

でも、それがあなたにとっての自由と一致するとは限りませんよね。なので、「一致させなくては」とか「何故、一致できないのか?」というように思う必要は無いです。私もここで、散々迷いましたから。でも、それは意味のないことだったと判りました。「あなた自身の」掛け替えのない自由を見つけて下さい。それを邪魔するものは、全てインチキです。新興宗教とか、そんなですよね?(私がいたところは、違いますよ)

もちろん人は、関わり合いの中で存在していますので、「チームを組む」ことは大切です。だけど、チームは「重なりあう部分」で作るものだと思うのです。「重なりあう部分」があるということは、「重ならない部分」があって当然なのです。違うもの同士が重なった時に、美しさが生まれるのだから。カオナシさんたちは、「重ならない部分」を見つけられないのです。だから無理くり全部を重ねようとして、それは実際、自分を偽ることになるから、イライラしているのです。きっとそういう自分にも気づいていないと思うのだけど。

こうして書いていると、カオナシさんたちを、どうにか出来ないかな?と思うのです。私もカオナシ生活で苦しみましたから((+_+))

その人たちのことを思うと、「何故、長年精神的なことを学んでいるのに、なかなか前進出来ないのだろう?」という疑問が浮かぶのでした。

それで、あることに気付いたので、次回でシェアしようと思います。

長々と書き綴っていますが、これも最後のご奉仕かな??
このブログは、11月に閉鎖します。サロンの名前が変わったので、全てアメブロに移行させる方針です。

今回の記事などは、アメブロにコピペしますが、全ての記事が見られるという状況ではなくなります。
その御案内は、このシリーズを書き終えてからにしますね。

とにかくこのシリーズで、「何故、悟ろうとするのですか?」ということにフォーカスして、ブログを閉鎖するつもりです。
大切なことだと思うので。

最後まで、よろしくお願いします(@^^)/~~~
2019.02.12sakata1